高島礼子の母親の死因はがん?20歳で失った家族の話が泣ける!?

高島礼子の母親の死因はがん?20歳で失った家族の話が泣ける!?

高島礼子さんの母親の死因はがんです。高島さんが20歳のころ、芸能界に入る前に亡くなっています。

本人はこの出来事を、人生最大の悲しみだったと振り返っているんです。

  • 母親の死因と、亡くなった時期について分かっていること
  • 母の死が、女優になる道につながった経緯
  • 父の介護13年と、家族構成の全体像
項目 内容
名前 高島礼子(たかしま れいこ)
生年月日 1964年7月25日
年齢 62歳(2026年9月時点)
出身地 神奈川県横浜市戸塚区
身長 168cm
血液型 B型
所属 太田プロダクション
母親 がんで死去(高島さんが20歳のころ)
父親 峯島武さん(2023年に死去)
女優の高島礼子さん
出典:太田プロダクション公式サイト(高島礼子 プロフィール
高島礼子さんの家族構成
峯島武さん
教育者
2023年に死去
パーキンソン病
━━
名前は非公表
がんで死去
高島さんが20歳のころ
名前は非公表
父の介護に協力
女優の高島礼子さん
本人
高島礼子さん
1964年7月25日生まれ
女優
┄┄
元夫
高知東生さん
1999年に結婚
2016年に離婚
子供はいない
実線は婚姻、点線は離婚を表します。顔画像が公表されているのは高島礼子さんのみで、ご家族の顔画像は公開されていません。
高島礼子さんの写真の出典:太田プロダクション公式サイト(高島礼子 プロフィール
目次

高島礼子の母親の死因

死因はがんでした。高島さんが20歳だったころですから、1984年から1985年ごろにあたります。

本人が公の場で語っており、複数のインタビューで触れられているんです。

死因はがんで高島礼子が20歳のころ

母親の死因については、本人がはっきりと語っているんですよね。

2023年2月の週刊文春のインタビューでは、私も20歳で母をがんで亡くしました、と述べていました。

映画『いちばん逢いたいひと』で白血病の少女の母親を演じた際、役への向き合い方を聞かれての言葉でした。

高島さんは1964年7月25日生まれ。20歳だったのは1984年7月から1985年7月にかけての1年間になります。

芸能界に入る前の出来事でした。デビューは1988年ですから、まだ会社員だったころですね。

がんの種類までは公表されていません。発覚から半年ほどで亡くなったと伝えられていますが、この点は確認できる一次情報が見当たりませんでした。

分かっているのは、死因ががんであることと、高島さんが20歳のときだったという2点です。

ネット上には闘病期間や病名を具体的に書く記事もありますが、出典が示されているものは見当たりませんでした。

40年以上前の出来事で、しかも相手は一般の方です。詳しい経緯が表に出てこないのは自然なことでしょう。

1980年代半ばは、がんの告知そのものが一般的ではなかった時代でもあります。本人にも家族にも病名を伝えない例が珍しくありませんでした。

検査や治療の選択肢も今とは大きく違います。同じ病気でも、当時と現在では経過がまるで変わってくるでしょう。

高島さんが多くを語らないのは、そうした時代背景も関係しているのかもしれませんね。

母親の名前や年齢も公表されていません。当時は高島さんもまだ一般の人でしたから、報道もされていないんです。

つまり、母について公になっている情報は本人が語ったぶんだけ。それがすべてということになります。

亡くなった年齢も分かっていません。逆算する手がかりになる情報も公表されていないんですよね。

推測を重ねるより、がんで、20歳のときに、という2点を押さえておくのがいちばん確かでしょう。

命日や葬儀についても公表されていません。当然といえば当然の話です。

家族についての情報が少ないのは、高島さんが私生活をあまり語らないタイプだからでもあります。

語るときは仕事の話か、介護のように誰かの役に立つ話。そういう線引きをしている人なんですよね。

母親は一般の方ですから、名前も年齢も公表されていません。顔画像も公開されていないんですよね。

人生最大の悲しみと語った母の死

この出来事を、高島さんは人生最大の悲しみとして振り返っています。

当時の高島さんは高校を卒業して働いていました。父の意向に反して大学へ行かず、就職を選んでいたんです。

母が亡くなったことで、家事を担当するために会社を辞めることになります。

20歳で母を失い、仕事も手放す。人生でいちばん重い時期だったのは想像がつきますよね。

この時期のことを、高島さんは人生最大の悲しみという言い方で振り返っています。悲しみという言葉を最上級で使うのは、この母の死についてだけなんです。

ところが、そこから運命が動き出しました。

高校時代から車に興味を持っていた高島さんは、レーサーの道へ進みます。16歳で原付、18歳で車の免許を取っていた人でした。

レースに出るには費用がかかります。その出費をまかなうため、1987年にレースクイーンとして働き始めるんです。

会社を辞めていなければ、レースにも打ち込んでいなかったかもしれません。母の死が、結果として女優への入り口を開いたことになります。

本人も、芸能界を目指したのは23歳のときで、もうおばさんだなと思っていたと振り返っています。

20歳で母を送り、23歳で進路を決め、25歳で女優としてのスタートを切る。20代がまるごと転換期だったわけですね。

レースでは、コーナーを曲がり切れずに車ごと転がったこともあると語っています。危険と隣り合わせの世界に飛び込んでいたんです。

バブル期のレースクイーンは高額のギャラで知られていました。その報酬をレースの費用に回していたわけですね。

母を失った直後の20代前半に、そこまで思い切った行動へ出た。喪失の反動だったと見ることもできそうですよね。

母は自立を応援してくれた人

母親がどんな人だったのかも、少しずつ語られているんです。

高島さんの若い頃、自立を応援してくれたのが母。レースの費用も援助してくれていたといいます。

対照的だったのが父です。厳格な教育者で、テレビはNHKの大河ドラマと暴れん坊将軍くらいしか見てはいけないと言われていたそうです。

一度、母とテレビで野球を観ていただけで、あとから帰宅した父にひどく怒られたという話も残っているのだとか。

早く自立しようと高校時代からアルバイトを始めたのも、この家庭環境があったからでした。

厳しい父と、背中を押してくれる母。役割がはっきり分かれていた家庭だったのでしょう。

父の職業について、大学教授だったとする記事も見かけます。ただ、確認できる範囲では教育者・教師という表記にとどまるんですよね。

テレビの視聴まで制限する家庭でしたから、教育に厳しい人だったのは間違いないでしょう。

娘に大学進学を求めたことからも、学歴を重んじる価値観がうかがえますよね。

NHKの番組でも、温厚な人気教師だったと紹介されていました。大学教授という説には裏づけが見当たりません。

小さいころは内向的な性格だったとも本人が明かしています。今の凛とした印象とはずいぶん違いますね。

その内向的な少女が、車に乗り、レースに出て、女優になった。母を失ってからの変化がいかに大きかったかが分かります。

高校時代からアルバイトをして、16歳で原付、18歳で車の免許を取っています。行動の早さは当時からのものでした。

その母を20歳で失ったことを思うと、その後の道のりの重みが違って見えてきますよね。

応援してくれる側の親を先に亡くし、反対していた側の親と長く向き合うことになった。皮肉な巡り合わせでもあります。

父から大学へ進むよう言われながら、それを拒んで就職したのも高島さんでした。意志の強さは早くから出ていたようです。

芸能界入りのときも、父からは猛反対されています。ただ、本人の意思の固さに根負けし、その後は応援に回ったと伝えられていました。

母が生きていれば、真っ先に喜んだ場面だったでしょうね。

レースクイーンから女優へという進路は、当時としてもかなり異色でした。厳格な家庭で育った人が選ぶ道には見えません。

それでも押し通したのは、自立を応援してくれた母の記憶があったからではないでしょうか。

母のことを語る場面は多くありませんが、出てくるときは必ず応援してくれた人として登場します。

20歳という年齢は、親のありがたみが分かり始める時期でもありますよね。ちょうどそのタイミングで失ったことになります。

父については厳しさのエピソードが多いのと対照的ですよね。

ファミリーヒストリーで明かされた母の素顔

母親について、まとまった形で語られた機会が一度だけあるんです。

NHKの番組ファミリーヒストリーですね。放送されたのは2022年5月23日でした。

番組の紹介文には、母は若くして亡くなり、父は無口で厳しい人、と書かれています。

高島さん自身のコメントも紹介されました。先祖はもちろん、両親のこともほとんど知らない、という言葉なんですね。

20歳で母を、そして父も無口な人でしたから、家族の来歴を聞く機会がなかったわけですね。

番組では、母が近所でも評判の少女だったことが明かされました。当時の写真は出演者を驚かせるほどだったといいます。

両親の出身地は茨城県です。父方の祖父は那珂川を泳いで渡るほどの情熱家だったと紹介されました。

父は若い頃、温厚な人気教師だったものの突然退職しており、その理由も番組で明らかにされています。

母の面影が公の電波に乗ったのは、この放送が唯一に近い機会でしょう。

ファミリーヒストリーは、出演者本人も知らない家族の歴史を番組が調べて伝える形式です。両親のことをほとんど知らないと語る高島さんには、うってつけの企画でした。

茨城の実家筋には、道楽者や勝負師、親分肌といった個性の強い先祖が並んでいたと紹介されているんです。

厳格だった父の背景に、そうした一族の気質があったと知る回でもありました。

番組では、父が突然教師を辞めた理由も明かされています。切実な事情があったと紹介されました。

娘に厳しかった父の側にも、語られてこなかった事情があった。番組が家族の空白を埋めた形ですね。

放送は父が亡くなる前年でした。父の話を聞ける最後の機会でもあったのでしょう。

高島礼子の家族構成

家族の全体像もまとめておきましょうか。

続柄 名前 分かっていること
峯島武さん 教育者。40歳のころにパーキンソン病が発覚し2023年に死去
非公表 高島さんが20歳のころにがんで死去
非公表 実姉。父の介護に家族で協力した
元夫 高知東生さん 1999年に結婚し2016年に離婚。子供はいない

父の名前が分かっているのは、ファミリーヒストリーで紹介されたためです。峯島武さんといい、茨城県東茨城郡城里町の出身でした。

この縁で、高島さんは城里町のしろさと大使に任命されているんですね。

姉がいることは、父の介護の話のなかで明かされました。実姉の家族も介護に加わっていたと報じられているんです。

子供はいません。高知東生さんとの間にも、前の結婚相手との間にも子はいないと本人側が明らかにしています。

娘がいるのではという話も見かけますが、そうした事実は確認できませんでした。

ドラマで母親役を演じることが多いため、実際に子供がいると思われやすいのでしょう。

『いちばん逢いたいひと』でも白血病の少女の母を演じ、『春の呪い』では工藤阿須加さんの母親役でした。母親役の名手として知られる人なんです。

子供がいない俳優が母を演じる。その説得力の背景に、20歳で母を失った経験があるとも読めますよね。

母を演じるとき、参照しているのは自分の母親の記憶なのかもしれません。20歳までの20年ぶんの記憶です。

本人も、皆のそういう経験が滲み出たのかもしれません、と語っていました。共演者にも家族を白血病で亡くした人がいたそうです。

母の死が女優人生の出発点になった

改めて見ると、母の死は高島さんのキャリアの起点でもあるんですよね。

1987年にレースクイーンとして活動を始め、その後に芸能事務所へ所属してモデルの仕事に入ります。

1988年、とらばーゆのCMでデビュー。このCMを見ていた松平健さんの紹介で、ドラマ『暴れん坊将軍III』に初出演するんです。

本格的な女優デビューは25歳のときでした。同世代と比べれば遅いスタートですよね。

1993年の『さまよえる脳髄』で初主演し、1996年の『陽炎』シリーズで気の強い女賭博師を演じたことが転機になります。

2001年には日本アカデミー賞の優秀助演女優賞を受賞しています。

母を失った20歳から、賞を受けるまでおよそ17年。長い道のりだったことになります。

『極道の妻たち』シリーズや『大奥』、大河ドラマ『天地人』など、代表作も次々に増えていったんですよね。

強い女性を演じさせたら右に出る者がいない。そんな評価が定着していったのもこの時期です。

その原点に、20歳での喪失があった。本人が多くを語らないぶん、経歴のほうが物語っていますね。

デビューのきっかけになったとらばーゆのCMは、転職情報誌のものでした。会社を辞めた経験のある人が転職のCMに出る。妙な巡り合わせです。

松平健さんの紹介で『暴れん坊将軍III』に出たのも縁でしょう。父が数少ない視聴を許した番組が、その暴れん坊将軍だったのですから。

厳格な父が見せてくれた番組で、娘が女優としての一歩を踏み出す。できすぎた話にも思えますよね。

その父も、最初は芸能界入りを猛反対していました。それが本人の意思の固さに折れ、応援に転じたわけです。

母は応援してくれた人、父は反対から応援へ回った人。どちらの支えもあって今があるのでしょう。

ただ、母がその後の活躍を見ることはありませんでした。デビューは母の死から4年後のことです。

62歳になった高島礼子さん
出典:太田プロダクション公式サイト(高島礼子 プロフィール

父の介護13年と高島礼子の現在

母を早くに亡くしたぶん、父への思いは強かったといいます。

40歳のころに父のパーキンソン病が判明し、そこから長い介護生活が始まるんです。

父のパーキンソン病と介護の日々

父の峯島武さんにパーキンソン病が見つかったのは、高島さんが40歳のころ。2004年から2005年ごろにあたりますね。

その後、介助が必要になった時期から本格的な介護が始まったといいます。

場所は横浜の実家。仕事と両立させながら、実家や入院先に通う生活が続いたそうです。

本人は雑誌のインタビューで、亡くなるまでの13年間、私も一生懸命介護に携わりました、と語っているんです。

父も私も精いっぱいやったので悔いはありません。その言葉で締めくくられているんですね。

介護にはヘルパーや家政婦も加わり、実姉の家族と合わせて24時間体制を組んでいたと報じられています。

介護保険ではまかなえない高額な費用も必要だったといいます。仕事を続けられたからこそ支えられた面もあるでしょう。

パーキンソン病は、体の動きがゆっくりになったり手足が震えたりする神経の病気です。進行すると日常の動作に介助が必要になります。

国が指定する難病のひとつで、高齢になるほど発症しやすいとされています。長期の介護を前提に考えなければならない病気なんですね。

高島さんの父の場合も、発覚から他界まで20年近い年月がありました。介護が長期戦になる典型的な経過です。

仕事を持つ子供が親を看る。同じ状況に置かれている人には、参考になる話が多いと思います。

1人で抱え込まず、ヘルパーや家族の力を借りる。高島さんが実際にやってきた形でもあるんですよね。

父が亡くなったのは2023年。母を見送ってから、およそ38年後のことでした。

母は半年ほどで急に逝き、父は長い時間をかけて弱っていった。看取り方がまったく違ったことになりますね。

延命治療をめぐって葛藤した時期もあったと明かしています。それでも悔いはないと言い切れるのは、やり切ったからでしょう。

20歳のときは何もできないまま母を見送った。その記憶が、父への向き合い方を決めたのかもしれません。

介護のなかで終活の大切さについても語るようになりました。家族での話し合いから始めるべきだ、という考え方です。

親の意向を聞けないまま看取ることの重さを、二度経験したくなかったのでしょう。

介護の経験を公の場で話すようになったのも、同じ立場の人に向けてのことだと思われます。

実際、介護をテーマにした媒体のインタビューにも複数回応じています。俳優としてより、経験者として語る場ですね。

老人ホームや介護施設を扱うサイトの記事にも登場していました。同じ悩みを抱える人へ向けた発信を続けているわけです。

有名人が介護を語ると、経済的に余裕があるからできたのだと受け取られがちですよね。それでも高額な費用の話まで含めて話しているのは誠実な姿勢だと思います。

元夫の高知東生も介護に加わっていた

父の介護には、当時の夫だった高知東生さんも関わっていたんです。

高島さんが高知さんと結婚したのは1999年2月で、2年間の交際を経てのことでした。

2016年3月のインタビューでは、父の介護について夫と二人三脚だと語っているんですよね。

高知さんの側も、2015年に義父の介護を理由として芸能界を引退する意向を明らかにしていました。

夫婦そろって介護に向き合っていた時期があったわけですね。

その後、2016年8月1日に離婚が発表されます。高知さんが薬物事件で逮捕されたことを受けての決断でした。

高島さんは離婚直後に精神的に参ってしまい、それまで続けていた喫煙をやめたとインタビューで明かしています。

母を20歳で失い、夫と別れ、父を看取る。ひとりで抱えた時期がかなり長かったことになりますよね。

高知東生さんは1964年12月22日生まれで、高島さんと同学年にあたります。高知県高知市の出身です。

離婚後は2015年秋に引退していた芸能活動を2018年に再開し、依存症からの回復を伝える発信を続けています。

介護の時期をともに過ごした相手ですから、家族の物語のなかでは外せない存在でしょう。

高知さんにとっても高島さんは2人目の妻でした。前の結婚相手との間にも子はいません。

おしどり夫婦として知られていただけに、離婚は大きく報じられます。結婚生活は17年ほどだったことになりますね。

看護師の言葉で肩の力が抜けた

介護の期間には、気持ちが軽くなる転機もあったんです。

2025年7月に公開されたインタビューで、高島さんはこう振り返っているんですね。

毎日のように見舞いに通っていたのは、芸能人だから来ないと思われたくないという意識があったからだそうです。

有名であることが、かえって自分を縛っていたわけですね。

そんなとき、看護師からこう言われたといいます。芸能人の方にありがちなのですが、周囲の目を気にして無理してお見舞いにいらっしゃる方が多い、と。

この言葉で鎧を脱げたのだとか。50歳を迎える直前のことでした。

40代は更年期障害、四十肩、膝の痛み、老眼が一度に来た時期でもあります。複数の病院に通いながら、年に5本から6本以上の映画やドラマをこなしていたそうです。

自分に厳しく、とことん追い込みすぎていてしんどかった。当時をそう表現しているんですよね。

還暦を過ぎた今は、いつも笑顔の人を目指しているのだとか。どんなことがあっても笑っていましょう、というのが本人からのメッセージでした。

笑顔の人っていい顔しているし、周りも笑顔になる。そう続けていました。

母を早くに亡くし、父を長く介護し、離婚も経験した人の言葉です。重みが違いますよね。

40代から50代にかけては、介護と更年期と仕事が同時に来た時期でした。いわゆるダブルケアに近い状況だったのでしょう。

同じ年代で親の介護を抱える読者にとっては、他人事ではない話だと思います。

テレビで見る華やかな姿の裏側で、20年近く実家に通い続けていた。そのことを知ると見え方が変わりますよね。

高島礼子の経歴と2026年の現在

ここまでの歩みを年表にまとめておきましょう。

出来事
1964年 7月25日に神奈川県横浜市で生まれる
1984年ごろ 20歳のときに母をがんで亡くす
1987年 レースクイーンとして活動を始める
1988年 とらばーゆのCMでデビュー
1993年 『さまよえる脳髄』で映画初主演
1999年 高知東生さんと結婚
2001年 日本アカデミー賞の優秀助演女優賞を受賞
2004年ごろ 父のパーキンソン病が判明
2016年 高知東生さんと離婚
2022年 NHKファミリーヒストリーに出演
2023年 父が死去
2026年 62歳。舞台やドラマで活動を継続

2026年8月には、舞台『華氏451度』でミルドレッド役を務めているんです。

BS-TBSでは、家宝を捜索するスペシャル番組にも出演しています。CMではヨネックスに起用されていました。

62歳になった今も、舞台とテレビの両方で仕事が続いている状態ですね。

所属は太田プロダクション。公式プロフィールには身長168cm、血液型B型と記載されているんですね。

代表作にはドラマ『御宿かわせみ』『天地人』『熟年離婚』、映画『隠し剣鬼の爪』『極道の妻たち』シリーズなどが並びます。

近年もNetflixの『離婚しようよ』やテレビ朝日の『波よ聞いてくれ』に出演。仕事の幅は今も広いままでしょう。

2023年には韓国ドラマにも出演しています。セリフはすべて韓国語で、台本は当日に本物が届いたと振り返っていました。

60歳を過ぎて新しい挑戦を続けている。20歳のときに人生が一度止まった人とは思えない動き方ですよね。

再婚については、していません。2024年のインタビューでは2度目の結婚への本音も語っていました。

痩せたのではないかと心配する声も出ることがありますが、本人が病気を公表した事実は確認できませんでした。

40代に更年期障害などを経験したことは本人が語っています。ただ、それ以降の健康状態について公の発表はありません。

趣味はテニスとゴルフ、特技はモータースポーツ。体を動かす習慣は続いているようです。

好きな車はトヨタのクレスタ、マークII、チェイサー。いわゆるマークII三兄弟だと公言しています。

レースクイーンから始まった人ですから、車好きは筋金入りなんですよね。

母が援助してくれたレース費用が、この趣味の出発点にありました。40年たっても続いているわけです。

母を語る言葉は少なくても、残したものはこうして形になって残っているのでしょう。

モータースポーツを特技として公式プロフィールに載せ続けているのも、そのあらわれかもしれませんね。

高島礼子の母親についてのまとめ

  • 母親の死因はがんで、高島礼子さんが20歳のころに亡くなった
  • 本人は人生最大の悲しみと振り返っている
  • 母の死をきっかけに会社を辞め、レースから芸能界へ進んだ
  • 母は自立を応援し、レース費用も援助してくれる存在だった
  • 父の峯島武さんはパーキンソン病を患い、2023年に死去した

20歳で母を失った人が、その悲しみを起点に女優になった。

経歴を並べるだけでは見えてこない部分が、家族の話には詰まっているんですよね。

母をがんで、父をパーキンソン病で。両親をまったく違う形で見送った人でもあります。

それでも笑顔でいようと語る。62歳の言葉として、これ以上のものはないでしょう。

母の死因を調べてこの記事にたどり着いた人も、その先の40年を知ると印象が変わるのではないでしょうか。

20歳の喪失から始まった女優人生が、いまも続いています。それがいちばんの答えなのだと思います。

母の死因という一点から調べ始めても、たどり着くのは家族と40年ぶんの物語なんですよね。

よくある質問

Q1. 高島礼子さんの母親の死因は何ですか

A. がんです。高島さんが20歳のころに亡くなりました。1964年7月25日生まれですから、1984年から1985年ごろにあたります。2023年の週刊文春のインタビューで、私も20歳で母をがんで亡くしました、と本人が語っています。がんの種類は公表されていません。

Q2. 母親はどんな人だったのですか

A. 高島さんの自立を応援し、レースの費用も援助してくれる人だったといいます。父が厳格な教育者で娘に厳しかった一方、母は背中を押す側でした。NHKのファミリーヒストリーでは、近所でも評判の少女だったことが紹介されています。名前や顔画像は公表されていません。

Q3. 父親はどんな人ですか

A. 峯島武さんという名前で、茨城県東茨城郡城里町の出身です。厳格な教育者で、テレビはNHKの大河ドラマと暴れん坊将軍くらいしか見せなかったといいます。40歳のころに高島さんがパーキンソン病の発覚を知り、その後長く介護を続け、2023年に亡くなりました。

Q4. 兄弟はいますか

A. 姉がいます。実姉の家族も父の介護に加わっていたと報じられました。名前や職業は公表されていません。高島さん自身に子供はおらず、娘がいるという話にも裏づけとなる情報は見当たりませんでした。

Q5. 現在は何をしていますか

A. 62歳になった2026年も女優として活動を続けています。8月には舞台『華氏451度』に出演し、BS-TBSのスペシャル番組やCMにも起用されています。高知東生さんと2016年に離婚して以降、再婚はしていません。

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