元サッカー日本代表監督・岡田武史さんの妻は、2歳年上の八重子さんです。早稲田大学在学中に原宿のサッカーショップで出会い、大学4年で学生結婚しました。
子供は2男1女。代表監督時代の脅迫騒動も、ドイツ留学も、夫婦で乗り越えてきたんですよ。
- 妻・八重子さんのなれそめと学生結婚の理由
- 脅迫電話やパトカー、娘の手紙など家族のエピソード
- 息子や娘、初孫のことと、2026年の現在
| 名前 | 岡田 武史(おかだ たけし) |
| 生年月日 | 1956年8月25日(70歳) |
| 出身 | 大阪府大阪市 |
| 学歴 | 天王寺高校、早稲田大学政治経済学部 |
| 現在 | FC今治を運営する今治.夢スポーツ会長、FC今治高校里山校の学園長 |
| 妻 | 八重子さん(2歳年上) |
| 結婚 | 1980年2月、大学4年で学生結婚 |
| 子供 | 2男1女 |
| 父 | 岡田正雄さん(産婦人科医) |
FC今治会長
1980年に学生結婚
原宿のサッカーショップKAMOがきっかけ
卒業前に入籍
コーチ留学に同行
自宅前に24時間パトカー
娘の手紙が話題に
今治へ
結婚46年目
岡田武史の妻は2歳年上の八重子さん
妻の八重子さんは一般の方で、顔写真は公開されていません。出会いの場は原宿のサッカーショップで、岡田さんが大学4年のときに結婚しました。
2026年で結婚46年目。W杯の重圧や脅迫騒動のときも、いちばん近くで支えてきた人です。
妻は学生時代に出会った八重子さん
岡田武史さんの妻は八重子さんといいます。岡田さんより2歳年上で、学生時代から連れ添ってきた女性です。
岡田さんは1956年8月生まれなので、八重子さんは1954年ごろの生まれと見られます。2026年で70代前半ということになりますね。
芸能人でもタレントでもない一般の方なので、顔写真は公開されていません。岡田さんのインタビューに登場するときも、たいてい「家内」という言葉で語られます。
結婚は1980年2月で、大学卒業の直前でした。その年の春に古河電工へ入社し、サッカー部でプレーを始めているので、学生のうちに結婚を済ませたかたちなんです。
2026年で結婚生活は46年目に入りました。監督業は転勤と重圧の連続ですから、これだけ長く支え続けるのは並大抵のことではなかったでしょう。
現役時代、コーチ時代、代表監督時代と、岡田さんの肩書きは何度も変わりました。札幌、横浜、そして中国の杭州と仕事の拠点も移っています。そのたびに家庭の形を整えてきたのが八重子さんだったのでしょう。
岡田さんは言葉を選ばず本音を語るタイプで、取材では「家内」の話もさらりと口にします。飾らない呼び方の中に、長年連れ添った夫婦の距離感がのぞいているように感じられますね。
| 項目 | 分かっていること |
| 名前 | 八重子さん |
| 年齢 | 岡田さんより2歳年上 |
| 出会い | 原宿のサッカーショップKAMO |
| 結婚 | 1980年2月(大学4年) |
| 子供 | 2男1女 |
| 顔写真 | 公開されていない |
なれそめは原宿のサッカーショップ
ふたりのなれそめは、ネット上で「知人の紹介」「試合を見に来ていた」などと書かれてきました。ところが本人の説明は少し違うんです。
2025年10月に日本経済新聞で連載された「私の履歴書」で、岡田さんは出会いをつづっています。学生時代、シューズや練習着を東京・原宿のサッカーショップKAMOで買っていて、そこでアルバイトをしていた「かわいい女性」が八重子さんでした。
店に通ううちに挨拶を交わすようになり、やがて恋仲に。大学4年で結婚するに至ったと、本人が振り返っています。買い物がきっかけの恋だったわけですね。出会いの時期は、早稲田の2年生のころだったと紹介されることが多いようです。
KAMOは今もサッカーファンに知られる専門店です。早稲田のサッカー部員だった岡田さんが、用具を買いに通った店で将来の妻に出会ったと思うと、なんともサッカー人らしいなれそめでしょう。
ネットで広まった「知人の紹介」説は、本人の連載を読むと少なくとも中心の話ではなさそうです。「私の履歴書」は本人の筆による記録ですから、こちらを信じるのが自然と考えられます。
さらに興味深いのが、八重子さんの本業です。私の履歴書によると、本社の厚生課で働きながら、俳優・倍賞千恵子さんの弟で野球部監督の倍賞明さんの手伝いもしていました。
同じ厚生課で八重子さんの斜め前に座っていたのが、サッカー部監督の加茂周さんだったというんです。倍賞さんと加茂さんの経歴からすると、勤め先は日産自動車だったと見られます。
加茂さんといえば、後に日本代表監督となり、岡田さんをコーチに抜てきした人物。1997年に加茂さんが更迭されて岡田さんが後を継ぐわけですから、妻の席の斜め前にいた人から代表監督のバトンを受けた計算になります。運命のめぐり合わせを感じる話ですよね。
八重子さんは若い頃の加茂さんを職場で見ていた人でもあるわけです。夫がそのコーチになると聞いたとき、どんな気持ちだったのか。そんな場面を想像すると、夫婦の物語がいっそう面白く感じられますよね。
学生結婚を選んだ理由
なぜ卒業を待たずに結婚したのか。岡田さんは「就職したら上司に仲人を頼まなければならず、しがらみができるのが嫌だった」という趣旨の話をしていたと伝えられています。いかにも岡田さんらしい理由でしょう。
もっとも、すんなり進んだわけではなかったようです。私の履歴書の連載では、妻の実家から最初は結婚を反対された話にも触れられています。
学生の身で2歳年上の女性と結婚するのですから、親が心配するのも無理はありません。それでも意志を通したところに、頑固で筋を曲げない岡田さんの性格がよく表れているのかもしれませんね。
当時の岡田さんは、まだ何者でもない大学生でした。日本にプロリーグはなく、卒業後は会社員としてサッカーを続ける道しかありません。そんな時代に結婚を決めた八重子さんも、相手の将来を信じる強さを持った人だったのでしょう。
結婚後の八重子さんは、夫の行く先についていく人生を選びました。1992年にドイツへコーチ留学したときも、一緒に海を渡ったとされています。
幼い子供たちを連れての海外生活は、妻にとっても大きな決断だったはずですよね。
脅迫電話とパトカーの日々
八重子さんにとって最もつらかった時期は、1997年だったのではないでしょうか。41歳の岡田さんは監督経験がないまま、W杯予選のさなかに日本代表監督へ昇格しました。
有名になるとは思っていなかったため、電話帳に番号と住所を載せたままでした。すると脅迫電話が止まらなくなり、家の前には24時間パトカーが停まる事態に。子供は危ないから送り迎えをするように言われたというんです。
岡田さんは2018年の講演で「家内は参っていた」と振り返っています。ふだん多くを語らない人が口にした言葉だけに、家族の苦労の大きさが伝わってきますよね。
運命のジョホールバルの前日には、現地から妻に電話を入れました。「明日勝てなかったら日本に帰れない」と、本気で伝えたといいます。
この電話を受けた八重子さんの気持ちは、想像するだけで胸が詰まります。もし負けていたら、家族全員の暮らしが変わっていたかもしれないんです。
岡田さんはこの時期を、自分の「遺伝子にスイッチが入った」瞬間として語ってきました。人生の転機となった極限の日々は、家族にとっても忘れられない時間だったはずですよね。
翌日、日本はイランを破って史上初のW杯出場を決めました。ところが1998年の本大会はカズこと三浦知良さんを外した決断もあって大きな批判を浴び、3戦全敗で帰国。自宅への嫌がらせも続いたと伝えられています。
そんなときでも、妻は変わらず笑顔で迎えてくれたそうです。どん底の夫が帰る場所を守り続けたことが、後の復活につながったのかもしれません。
2007年、オシム監督が脳梗塞で倒れると、岡田さんは再び代表監督を引き受けました。あれほどつらい思いをした家族が、2度目の就任をどう受け止めたのか。夫婦の間でどんな会話があったのか、気になるところです。
2010年の南アフリカW杯で、日本はカメルーンとデンマークを破って決勝トーナメントへ進み、パラグアイにPK戦で敗れてベスト16で終えました。12年越しのリベンジを、家族も特別な思いで見つめていたことでしょう。
1998年の後、岡田さんはJ2のコンサドーレ札幌を率いてJ1昇格に導き、2003年からは横浜F・マリノスでリーグ連覇を達成しました。批判の嵐から立ち直り、名将と呼ばれるまでになった裏側には、変わらず家庭を守る妻の存在があったのでしょう。
息子と娘は2男1女
岡田さんと八重子さんの間には、2男1女の3人の子供がいます。「息子と娘の2人」と書くサイトもありますが、Wikipediaなどでは3人とされています。
3人とも一般の方で、職業や現在の暮らしは公表されていません。子供の名前を載せているサイトもありますが、2002年ごろの古い情報が中心で、生まれ順も資料によって違います。確かな情報とは言えないため、名前は書かずにおきましょう。
「息子もサッカー選手なのでは」と気になる声もありますが、プロになったという情報は見つかりませんでした。
娘さんについては、感動的な手紙のエピソードが知られています。2010年の南アフリカW杯の前、批判にさらされていた父に宛てて娘さんが書いた手紙が、父の日に新聞で紹介されたと伝えられているんです。
父は想像を絶する重圧に耐えて戦っている、精いっぱい応援している、といった内容だったそうです。手紙の原文までは確認できませんでしたが、当時の日本代表は本大会前に4連敗。その中でベスト16まで勝ち進んだのは、よく知られるとおりです。
当時の岡田さんには、ベスト4を目標に掲げたことへの批判も集まっていました。ネットやメディアで父親が責められる様子を、娘さんはどんな思いで見ていたのでしょうか。それでも応援を言葉にした手紙だったからこそ、多くの人の心に残ったのだと思います。
脅迫騒動のときに送り迎えをされていた子供たちが、大人になって父を励ます側に回ったわけですね。家族の絆を感じる話でしょう。
| 続柄 | 名前 | 分かっていること |
| 妻 | 八重子さん | 2歳年上、学生結婚 |
| 子供 | 非公表(3人) | 2男1女、いずれも一般の方 |
| 父 | 岡田正雄さん | 産婦人科医 |
| 母 | 岡田幹子さん | 渡辺寿次郎さんの長女とされる |
初孫と岡田武史の覚悟
「岡田武史 初孫」という言葉も、気になる人が多いようです。2010年のW杯当時、女性自身は、岡田さんが初孫を亡くすという悲しい経験をしていたと報じました。
同じ記事は、横浜F・マリノスの監督を2006年に辞めてから代表監督に復帰するまでの間のこととして、禅道場での日々や妻の叱咤にも触れていたようです。ただ、詳しい経緯について本人が語った記録は確認できませんでした。
ご家族にとって、とても繊細な出来事です。そのような経験があったと報じられたことだけ、そっと記しておきたいと思います。
現在の孫の人数についても公表はありません。今治では子供たちの教育に力を注いでいる岡田さんですが、家族のことは今も静かに守っているようです。
子供たちが家庭を持っていれば、孫がいても不思議ではない年代です。岡田さんは講演などで次世代への思いをよく語っていて、「次の世代に何を残すか」という言葉には、家族への思いも重なっているのかもしれませんね。
岡田武史の歩みと2026年の現在
医者一家に生まれ、天王寺高校から早稲田へ。2度のW杯を指揮した後は今治でクラブ経営に転じました。2026年10月には日本サッカー協会の副会長を辞任し、大きな話題になっています。
- 父は産婦人科医で、祖父も医師の医者一家
- 2014年に今治へ渡り、FC今治のオーナーに
- 2026年10月24日付でJFA副会長を辞任
父親は医師で医者一家の出身
岡田さんの父親は、岡田正雄さんです。大阪大学医学部を出た産婦人科医で、閨閥学によると済生会病院の産婦人科長や岡田医院を担っていたんですね。
私の履歴書で岡田さんは、父方の祖父も産科医で、3人の息子を全員医者にしたと書いています。まさに医者一家なんです。
本籍は今も香川県の小豆島にあるそうで、父によると岡田家は平氏の落人の家系とのこと。「岡田武史の国籍は?」と気になる声もありますが、大阪市生まれの日本人で、ルーツは瀬戸内海の島でした。
母の幹子さんは、三和銀行の常任監査役を務めた渡辺寿次郎さんの長女とされています。きょうだいには姉がいると紹介されることが多いようです。
医師の家に育ちながら、岡田さんは医学の道には進みませんでした。父が息子の選んだ道をどう見ていたのか、気になるところですよね。
なお、阪神の監督を務めた岡田彰布さんとは名字が同じだけで、親戚という情報はありません。「岡田監督の妻」と調べると情報が混ざりやすいのですが、岡田彰布さんの妻は陽子さんで、まったくの別人です。
頭いいと言われる学歴
「岡田武史 頭いい」と評判なのは、学歴と話の深さの両方に理由がありそうなんです。
高校は大阪屈指の進学校、府立天王寺高校です。サッカーの実績はほとんどない学校でしたが、ここから世代別の代表まで駆け上がりました。
五木寛之さんの小説『青春の門』の主人公に憧れて早稲田を志し、1浪して政治経済学部に入学。勉強とサッカーの両立は当時から有名でした。
古河電工では10年プレーし、日本代表としても国際Aマッチに出場しています。引退後は会社員を続けながら指導者の道へ進み、ドイツ留学を経てコーチになったんです。
生物学者の話を引いて「遺伝子にスイッチが入る」と語るなど、学者のような言葉を使うのも岡田さんの特徴。本をよく読み、自分の頭で考え抜く人という印象を持つファンは多いでしょう。
2025年10月の「私の履歴書」では、現役時代から今治での経営までを1か月にわたってつづりました。「ホラ同然の夢を語りながら、常に命懸けの覚悟で取り組んできた」という紹介文は、岡田さんの半生をよく言い表していますよね。
2019年には日本サッカー殿堂にも掲額されました。選手、指導者、経営者の3つの顔でサッカー界に足跡を残した人物と言えるでしょう。
サッカー以外の活動も幅広く、2014年には内閣府の「選択する未来」委員会の委員を務めました。2021年にはBリーグの理事にも選ばれ、城西国際大学の特任教授や上場企業の社外取締役としての顔も持っています。
東日本大震災の後には、車にボールを積んで東北を回り、子供から高齢の方までサッカーを教えて歩いたと伝えられています。ボール1つで人をつなげる。その実感が、今治での活動にも生きているのかもしれません。
座右の銘のように語られる「勝負の神様は細部に宿る」も、岡田さんの代名詞です。理詰めで考え、細部までこだわる姿勢が「頭がいい」という評判につながっているのでしょう。
| 年 | 出来事 |
| 1956年 | 大阪市で誕生 |
| 1980年 | 八重子さんと結婚、早稲田大学卒業、古河電工へ |
| 1992年 | ドイツへコーチ留学 |
| 1997年 | 日本代表監督に就任、W杯初出場を決める |
| 2003年 | 横浜F・マリノス監督に就任し連覇 |
| 2007年 | オシム監督の後任で再び代表監督に |
| 2010年 | 南アフリカW杯でベスト16 |
| 2014年 | FC今治のオーナーに |
| 2024年 | FC今治高校里山校の学園長に |
| 2026年 | JFA副会長を辞任 |
今治に渡ったのはなぜ?
「岡田武史 今治 なぜ」もよく話題になるテーマです。2014年、岡田さんは四国リーグのFC今治の運営会社に出資し、51%の株を持つオーナーになりました。
Jクラブから監督のオファーがあるなか、選んだのは当時まだ地域リーグのクラブでした。大学時代の先輩がオーナーを務めていた縁があったといいます。
背景には、中国の杭州緑城を率いた経験から生まれた、日本人に合う育成の型を作りたいという思いがありました。クラブ、そして地域まで変えていく挑戦なんです。
2017年には約5000人収容の「ありがとうサービス.夢スタジアム」が完成し、2023年には今治里山スタジアムが開業しました。民設民営のスタジアムを2つも建てたわけですから、監督時代とはまた違う重圧だったはずです。
クラブが掲げるのは「物の豊かさより心の豊かさを大切にする社会」という理念です。スタジアムの敷地には障がいのある方の通所施設やカフェ、ドッグランまであり、試合のない日も人が集まる場所になっているんです。
2018年には公認S級コーチライセンスを返上しています。「持っていると現場に戻りたくなるから」という理由で、監督業に自ら区切りをつけたんです。
61歳を過ぎてからの経営者への転身は、周囲を驚かせました。監督として頂点を知る人が、地方の小さなクラブでスポンサー集めから始めたのですから、並の覚悟ではありません。学生時代から新しい道を選ぶたびに、そばで受け止めてきた八重子さんの理解も大きかったはずです。
FC今治は2024年にJ2へ昇格し、本拠地のアシックス里山スタジアムは2026年7月に約5300席から約8900席へ増席されました。岡田さんは今季について「昇格するんじゃないかな」と語っていて、J1も視野に入っています。
2026年のインタビューでは「目の前のことをがむしゃらにやってたら、気がついたら12年経っていた」と振り返っています。「僕はもう思いつき経営だから」と笑い、ワインを作りたいと言い出したらブドウの木が本当に植えられた話も披露していました。
2025年12月にはJICAの招きでラオスを訪問し、現地の子供たちにサッカーを教えています。今治発のスタジアムづくりは、海外からも注目を集めるようになったんですね。
2024年にはFC今治高校里山校の学園長にも就任。2026年4月には3学年がそろい、188人体制になりました。
開校当初は定員割れでしたが、翌年には志願者が大きく増えたそうです。子供たちに体験を通した学びを届けたいという思いが、学校づくりにまで広がったわけですね。
夫妻がどこで暮らしているのかは公表されていませんが、70歳になっても新しい挑戦を続ける夫を、八重子さんは今も見守っているのでしょうね。
2026年にJFA副会長を辞任
最新のニュースは、日本サッカー協会(JFA)副会長の辞任です。JFAは2026年10月28日、岡田さんが10月24日付で任期途中に辞任したと発表しました。
日本経済新聞によると、岡田さんはJFAを通じて「今回のW杯を巡る一連の対応については、私自身の信条との間に大きな隔たりがあり」と説明しました。一人のスポーツマンとして受け入れられなかった、という言葉が印象的です。
背景には、今夏のW杯をめぐる国際サッカー連盟(FIFA)の問題があると報じられています。2027年3月のFIFA会長選について、アジア連盟はインファンティノ会長の支持を表明し、JFAも同調する立場でした。岡田さんはこれに賛同していなかったと伝えられているんです。
任期は2028年3月まで残っていました。宮本恒靖会長は「寂しく感じます」と話し、今後も相談できればという考えを示しています。
宮本会長は11月5日の取材で「今日も電話で話をしました」と明かしていて、ふたりの関係が切れたわけではないようです。同じ日本代表の後輩でもある宮本会長にとって、岡田さんは今も頼れる先輩なのでしょう。
岡田さんは2016年に副会長に就任して2018年に退任、2022年に再任していて、協会の中枢で長く日本サッカーを支えてきました。その人が任期途中で身を引いたのですから、重みのある決断だったと見られています。
一方で、AFCと歩調を合わせることには現実的な理由があると理解を示したうえで、任期途中で退くことをわびる言葉も残しています。誰かを攻撃するのではなく、自分の信条に従ったという姿勢がうかがえますね。
若い頃に「しがらみが嫌だ」と学生結婚を選んだ人が、70歳でまた信条を理由に要職を降りる。筋の通し方は、半世紀たっても変わらないのかもしれませんね。
まとめ
- 岡田武史さんの妻は2歳年上の八重子さんで、原宿のサッカーショップKAMOがなれそめ
- 1980年2月に大学4年で学生結婚し、2026年で結婚46年目
- 代表監督時代は脅迫電話と24時間のパトカー警戒を夫婦で乗り越えた
- 子供は2男1女で一般の方。2010年W杯前の娘の手紙が話題に
- 2026年10月にJFA副会長を辞任し、現在はFC今治の会長として活動
表に出ることはほとんどなくても、岡田さんの歩みのそばにはいつも八重子さんがいました。監督人生の山も谷も、誰より近くで見てきた人なのでしょう。
原宿の店で始まった恋は、W杯の舞台を経て今治の里山へと続いてきました。岡田さんが信条を貫いてこられたのは、どんなときも帰る場所があったからなのかもしれませんね。70歳を迎えた岡田さんがこれからどんな夢を語り、夫婦でどんな時間を過ごしていくのか、これからも注目したいところです。
よくある質問
Q1. 岡田武史さんの妻は誰ですか?
2歳年上の八重子さんです。一般の方で、顔写真は公開されていません。
Q2. 2人のなれそめは?
岡田さんが学生時代に通った東京・原宿のサッカーショップKAMOで、アルバイトをしていた八重子さんと親しくなりました。本人が私の履歴書で語っています。
Q3. いつ結婚しましたか?
早稲田大学4年だった1980年2月です。卒業前の学生結婚でした。
Q4. 岡田武史さんに子供はいますか?
2男1女の3人です。いずれも一般の方で、名前や職業は公表されていません。
Q5. 息子はサッカー選手ですか?
プロのサッカー選手になったという情報は見つかりませんでした。
Q6. 娘の手紙とは何ですか?
2010年の南アフリカW杯の前に、娘さんが父を励ました手紙です。父の日に新聞で紹介されたと伝えられています。
Q7. 岡田武史さんの父親はどんな人ですか?
岡田正雄さんという産婦人科医です。祖父も産科医の医者一家でした。
Q8. 岡田彰布さんと親戚ですか?
親戚という情報はありません。岡田彰布さんは元阪神監督で、妻の陽子さんも八重子さんとは別人です。
Q9. なぜ今治に行ったのですか?
大学時代の先輩がオーナーだった縁で2014年にFC今治の経営に参加し、育成の型づくりと地域づくりに取り組むためです。
Q10. 岡田武史さんの現在は?
FC今治を運営する今治.夢スポーツの会長と、FC今治高校里山校の学園長を務めています。JFA副会長は2026年10月24日付で辞任しました。
Q11. JFA副会長を辞めた理由は?
今夏のW杯をめぐる一連の対応について、自身の信条との間に大きな隔たりがあったと説明しています。


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