倉本聰の妻は女優の平木久子!劇団で出会い65年連れ添った人生に迫る!

倉本聰の妻は女優の平木久子!劇団で出会い65年連れ添った人生に迫る!

倉本聰さんの妻は、女優の平木久子(ひらき ひさこ)さんです。東京大学在学中に入った劇団『仲間』で出会い、倉本さんが27歳のときに結婚しました。

2026年9月18日、倉本さんは富良野の自宅で91歳で亡くなりました。訃報を受けて、65年近く連れ添った妻がどんな人だったのかを知りたい人が増えているんですよね。

  • 妻・平木久子さんとの出会いと結婚、女優としての歩み
  • NHKとのトラブルの後、妻が告げた「貯金が7万円しかない」という言葉と富良野移住
  • 子供や兄弟など家族のこと、そして9月28日に公表された訃報の内容
名前 倉本 聰(くらもと そう)
本名 山谷 馨(やまや かおる)
生年月日 1935年1月1日(戸籍上。実際は1934年12月31日)
死去 2026年9月18日(91歳)、北海道富良野市の自宅で多臓器不全
出身 東京都渋谷区代々木
学歴 麻布中学・高校、東京大学文学部美学科
妻 女優の平木久子さん(演劇集団円)
結婚 倉本さんが27歳のとき(1960年代初め)
代表作 北の国から、前略おふくろ様、やすらぎの郷
お別れの会 2026年11月3日、富良野演劇工場(予定)
脚本家の倉本聰さん
脚本家の倉本聰さん(出典:倉本聰 界隈 https://kuramotoso.jp/)
倉本聰さんと妻・平木久子さん
父
山谷太郎さん
俳人・出版社役員
兄
東京大学出身
本人談「親父も兄貴も東大」
脚本家の倉本聰さん
本人
倉本聰さん
本名・山谷馨
2026年9月18日死去・91歳
=
妻
平木久子さん
女優(演劇集団円)
1960年代初めに結婚
出会い
劇団『仲間』
東大在学中、ほぼ同時期に入団
妻は女優の平木久子さん。倉本さんが27歳のときに結婚し、65年近く連れ添いました。平木さんの近影は公式に公開されていないため、シルエットで示しています。
顔写真の出典:倉本聰 界隈(https://kuramotoso.jp/)
目次

倉本聰の妻・平木久子さんについて分かっていること

妻は演劇集団円に所属する女優の平木久子さんです。学生演劇の劇団で出会い、倉本さんが脚本家として独り立ちする前から生活を共にしてきた人なんです。

NHKとのトラブルで仕事を失ったときも、富良野に移ったあとも、倉本さんの人生の転機には必ず妻の存在がありました。

妻は女優の平木久子さん 劇団『仲間』で出会った

倉本聰さんの妻は、女優の平木久子さんです。Wikipediaでも「妻は女優・平木久子(演劇集団円所属)」と記されていますね。

2人が出会ったのは、東京大学時代に倉本さんが籍を置いていた劇団『仲間』でした。週刊女性の連載「人間ドキュメント・倉本聰」によると、倉本さんは東大入学後もアルバイトをしながら『仲間』の文芸部に所属し、脚本の習作を次々と書いていたそうです。

「ほぼ同時期に『仲間』に入ってきたのが、妻の平木さんだ」と記事は書いています。脚本家を目指す学生と、舞台に立つ若い女優。劇団の稽古場が2人の出発点だったんですね。

倉本さんがラジオドラマで脚本家デビューしたのは大学2年のとき。4年の冬に15話のラジオドラマを書き、倉本聰というペンネームを初めて使いました。平木さんは、その「倉本聰」が生まれる前からそばにいた人ということになります。

学生演劇の仲間同士の結婚は、当時は決して珍しくありませんでした。ただ、夫は放送局の会社員でありながら夜は脚本を書き、妻は舞台に立つ。どちらも時間が不規則な仕事で、共働きの若い夫婦にとって楽な暮らしではなかったはずです。

結婚は倉本さんが27歳のとき。倉本さんは戸籍上1935年1月1日生まれですから、1962年前後にあたります。1959年にニッポン放送に入社し、会社員と脚本家の二足のわらじを履いていた時期でした。

ニッポン放送時代の倉本さんは、夜10時に会社を出て明け方4時ごろまで書く生活を続けていたとWikipediaにあります。新婚の家庭は、夫が夜通し原稿に向かう家だったのでしょう。

東京大学基金が2019年に掲載したインタビューで、倉本さんは当時を「壮絶」と振り返っています。退社前の2年間は睡眠2時間の生活で、会社の部長から「倉本聰って若手脚本家が目立ってきた」と言われても、それが自分だとは明かせなかったそうです。

同じインタビューによると、大学時代は本郷の授業に「まったく行かなかった」とのこと。代わりに劇団『仲間』へ毎日入り浸り、演出家の中村俊一さんの一挙手一投足を部屋の隅で盗み見る4年間だったと語っています。平木さんと出会ったのは、まさにその稽古場だったわけですね。

平木久子の女優としての歩み

2人が出会った劇団『仲間』は、1953年に演出家の中村俊一さんらが旗揚げした劇団です。倉本さんが「一挙手一投足を盗み見た」と語る中村さんのもとで、平木さんも舞台の基礎を学んだことになるんですね。

平木久子さんは東京出身の舞台女優で、演劇集団円に所属しています。演劇集団円は1975年に劇団雲の一部メンバーが結成した劇団で、芥川比呂志さんらが創設に関わりました。

舞台映像のデータベースEPADには、演劇集団円の公演『アトリエ』(2003年5月収録)の出演者として平木さんの名前が残っています。1945年のユダヤ人夫婦の紳士服のアトリエを舞台に、さまざまな事情を抱えた女性たちが助け合う物語なのだとか。

倉本さんが脚本家として売れっ子になってからも、平木さんは自分の舞台を続けていました。1977年に倉本さんが富良野へ移住したあとも、しばらくは東京で舞台女優としての仕事を続け、のちに富良野へ移ったと伝えられています。

脚本家の妻という立場に収まらず、自分の舞台を持ち続けた人だったわけですね。倉本さんが富良野塾で俳優を育てたとき、身近に舞台女優の妻がいたことは、決して小さくなかったはずです。

平木さんの年齢は、倉本さんと同世代の1934年ごろの生まれとする記事が多くあります。ただ、本人のプロフィールとして公式に確かめられる情報は多くないんです。

近年の顔写真も、劇団や倉本さんの公式サイトでは公開されていないようです。表舞台に出ることを好まない人だったのかもしれませんね。

倉本さんは作品の中で、何人もの女優に忘れがたい役を書いてきました。『北の国から』の令子、『前略おふくろ様』のおふくろ、『やすらぎの郷』の往年の女優たち。そのすぐ隣に、半世紀以上舞台に立ち続けた女優の妻がいたことは、倉本作品を読み解くうえで見逃せない事実でしょう。

NHK降板の年に妻が告げた貯金は7万円

夫婦の歩みの中で、もっともよく知られているのが1974年のエピソードです。

フリーになって10年目、倉本さんはNHKの大河ドラマ『勝海舟』の脚本を任されました。ところが放送開始から半年たったころ、週刊誌に「倉本聰氏、『勝海舟』に内部から爆弾発言」という見出しの記事が出てしまいます。事態はここから一気に動きました。

取材で語った真意が歪められた見出しでした。激怒したスタッフ20数人に責め立てられ、倉本さんはタクシーに飛び乗ります。本人は「タクシーで羽田に向かったことも、なぜ札幌行きの飛行機に乗ったのかということも」覚えていないと語っています。

そのまま札幌にとどまり、続きの脚本は郵送。結局、43回で降板しました。このあとNHKとは20年以上、絶縁状態が続いたとされているんです。

「もう脚本家としては終わりだな」。半分やけになって毎晩飲み歩く日々。夏が過ぎ、秋が来るころ、東京にいる妻からこう言われたそうです。「もう貯金が7万円しかない」。

倉本さんはトラック運転手になろうと腹をくくりました。その直後、フジテレビのプロデューサーが札幌までやって来て、書いたのが『6羽のかもめ』です。そこから『うちのホンカン』『前略おふくろ様』と、ヒット作が続いていきます。

『6羽のかもめ』は、落ち目の劇団員たちとテレビ業界の内幕を描いた作品でした。視聴率は伸びなかったものの高い評価を受け、倉本さんは脚本家として息を吹き返します。続く『前略おふくろ様』では萩原健一さんが板前見習いを演じ、母への手紙の形で物語が進む構成が話題になりました。

東京大学基金のインタビューでも、倉本さんはこの場面を語っています。業界から干されると思い込み、トラック運転手への転職を本気で考えていたところへ、妻から「貯金がもう7万円しかない」と知らせが来た、と。2016年の週刊女性、2019年の東大のインタビュー、どちらでも同じ数字を挙げているのが印象的です。

脚本家人生の最大の危機に、東京で家計を守り、現実を突きつけたのが妻でした。「貯金7万円」という数字は、倉本さんの訃報を伝える東京新聞の追悼記事の見出しにも使われています。夫婦の物語を語るうえで外せない一言なんです。

富良野移住と妻の暮らし

倉本さんは1977年、北海道の富良野市に移住しました。本人は「NHKとのトラブルから仕事はどうでもよくなっていた」と振り返っています。

移住して3年目に書いたのが『北の国から』です。東京から富良野へ移り住む父と子の物語は、倉本さん自身の決断と重なって見えますよね。

田中邦衛さん演じる黒板五郎が、純と蛍の2人の子を連れて富良野の廃屋に移り住む。妻の令子は東京に残る。物語の設定そのものは倉本家とまったく違いますが、「夫は北海道、妻は東京」という距離の感覚は、作者自身がよく知るものだったのかもしれません。

『北の国から』は1981年の連続ドラマから2002年の『遺言』まで、21年にわたってスペシャルが作られました。ドラマのロケ地には今も観光客が訪れ、富良野を全国区の観光地に押し上げています。

移住を決めたきっかけは、偶然出会った書道家から「富良野という土地を知っているか?」と勧められたことでした。東京大学北海道演習林の林長だった高橋延清教授が設計した4ヘクタールの森「文化村」にほれ込み、「その日のうちに、ここに永住しようと決めていました」と本人は語っています。

平木さんは当初、東京に残って舞台女優の仕事を続けたとされています。夫は富良野、妻は東京という時期があったわけです。のちに富良野へ移り、自然の中で暮らす夫を支えたのでしょう。

富良野での倉本さんの周りには、作品から生まれた場所がいくつもあります。ドラマ『優しい時間』で主人公が開いた喫茶店「珈琲 森の時計」は、放送後に実際のカフェとして営業を始めました。『北の国から』の石の家や拾ってきた家も、ロケ地として残されていますね。

1984年、倉本さんは私財を投じて俳優と脚本家を育てる富良野塾を開きます。2年間の受講料は無料で、塾生は廃屋を自分たちで改修し、夏場の農作業で1年分の生活費を稼ぐという独特の仕組みでした。

倉本さんはテレビの脚本を書きながら年間50回以上の講義を行い、旅公演にもほとんどついていったそうです。26年間で375人が巣立ち、そのうち3分の1が脚本家や俳優として活躍しているのだとか。

塾生にとって倉本さんは「先生」でしたが、平木さんは舞台の先輩でもありました。家庭の話を表に出さない夫婦だったため具体的な関わりは伝わっていませんが、演劇に生きた2人が同じ土地で後進を育てた事実は変わりません。

私財を投じた塾の運営を、家庭の側から支えたのも妻だったと考えるのが自然でしょう。「貯金7万円」の時代を知る妻が、それでも夫の挑戦を止めなかったことに、この夫婦の関係がよく表れています。

富良野にある『北の国から』の石の家
富良野にある『北の国から』ゆかりの石の家(出典:倉本聰 界隈 https://kuramotoso.jp/)

子供はいる?娘や養女の噂の検証

「倉本聰に子供はいますか」という疑問も多く見かけます。結論から言うと、本人や公式が子供について語った記録は、確かめられる範囲では見当たりませんでした。

ネット上には「娘はイラストレーター」「娘は養女」といった記述がありますが、いずれも個人ブログが出どころで、報道や本人の発言による裏付けは確認できませんでした。

倉本財団が9月28日に出した訃報でも、葬儀は「ご家族のご意向により、近親者にて執り行われました」とあるだけで、喪主の名前や家族構成は書かれていません。

出回っている話 確認できた根拠 この記事での扱い
妻は女優の平木久子さん Wikipedia・週刊女性の連載 事実として扱う
劇団『仲間』で出会い27歳で結婚 週刊女性「人間ドキュメント」 事実として扱う
妻が「貯金が7万円しかない」と告げた 週刊女性「人間ドキュメント」 事実として扱う
娘がイラストレーター 個人ブログのみ 確かめられない
娘は養女 個人ブログのみ 確かめられない

子供の有無は、人物記事でもっとも誤りが広まりやすい項目の一つです。年齢や職業まで具体的に書かれていても、出どころをたどると同じブログの孫引きだったということがよくあります。訃報の直後こそ、公式の発表にない情報は慎重に扱いたいところですね。

家族のことを表に出さなかったのは、倉本さんなりの線引きだったのでしょう。作品の中ではあれほど濃く家族を描きながら、自分の家族は守り続けた人でした。

父と兄 倉本聰の生まれ育った家

倉本さんは東京都渋谷区代々木の生まれ。本名は山谷馨です。

父の山谷太郎さんは俳人で、水原秋桜子の門下。日新書院の取締役も務めていました。祖父の山谷徳治郎さんは医学博士で日新医学社の社長、大伯父の山谷虎三さんは衆議院議員という家系なんです。

兄弟については、倉本さん自身が「うちは親父も兄貴も東大だったから」と語っています。兄がいたことは本人の言葉から分かりますが、名前や経歴は公表されていません。

高校2年のとき、父が狭心症の発作で亡くなりました。倉本さんは医師の伯父に言われて父の胸に乗り、「父さん、父さん!」と呼びかけながら心臓マッサージをしたそうです。

戦時中は学童疎開を経験し、1946年に東京へ戻って麻布中学に入学しました。校舎の屋上からは一面の焼け野原が見えたそうです。父は出版業を再開したものの本は売れず、祖父が残した国債も敗戦で紙くず同然になり、暮らしは苦しかったのだとか。

父が息を引き取ると、母は人払いをして濡れタオルで体を拭いた。その姿に「ああ、これはおふくろのものだったんだなあ」と感じたという回想は、夫婦というものへの倉本さんのまなざしを伝えています。

浪人を経て東大に入ったのは、母の願いでした。浪人中は予備校にも行かず新宿で映画ばかり見ていたと、本人は笑いながら振り返っていますね。

倉本聰の歩みと2026年9月の訃報

東大からニッポン放送を経て独立し、NHKとのトラブルを機に富良野へ。『北の国から』で国民的脚本家となり、91歳まで書き続けました。

2026年9月18日に亡くなり、28日に倉本財団が公表しました。11月3日には富良野演劇工場でお別れの会が予定されているんです。

プロフィールと学歴 作品一覧の年表

学歴は、東京学芸大学附属小金井小学校から麻布中学・高校、東京大学文学部美学科へ。麻布は自由な校風で演劇が盛んで、上級生には小沢昭一さんやフランキー堺さんがいました。

時期 できごと
1935年1月1日 東京都渋谷区代々木に生まれる(戸籍上)
1959年 東大卒業、ニッポン放送に入社
1960年代初め 劇団『仲間』で出会った平木久子さんと結婚
1963年 ニッポン放送を退社し独立
1974年 大河ドラマ『勝海舟』を43回で降板
1975年 『前略おふくろ様』(日本テレビ)
1977年 北海道富良野市に移住
1981年 『北の国から』(フジテレビ)放送開始
1984年 富良野塾を開設(2010年閉塾)
2000年 紫綬褒章
2010年 旭日小綬章
2017年 『やすらぎの郷』(テレビ朝日)
2025年 日本アカデミー賞会長功労賞
2026年9月18日 富良野の自宅で死去、91歳

NHKとのトラブルについても触れておくと、発端は脚本家が演出にどこまで関わるかをめぐる行き違いでした。1974年6月、週刊誌に「倉本聰氏、『勝海舟』に内部から爆弾発言」という見出しで記事が載り、これが決定的な亀裂になります。記事の中身は確認できたものの、見出しまでは直せなかったと本人は振り返っているんですよね。

映画では、高倉健さん主演の『駅 STATION』(1981年)の脚本で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受けています。北海道の増毛を舞台にした警察官の物語で、倉本さんの北海道ものは映画でも評価を得ました。

作品一覧から代表的なものを挙げると、ドラマは『6羽のかもめ』『前略おふくろ様』『北の国から』『昨日、悲別で』『優しい時間』『風のガーデン』『やすらぎの郷』。舞台では富良野塾の『谷は眠っていた』などが挙がるでしょう。

2002年に向田邦子賞、2009年と2017年に東京ドラマアウォード脚本賞を受賞しました。

2017年の『やすらぎの郷』は、テレビの黄金期を支えた俳優や脚本家だけが入れる老人ホームを舞台にした作品です。八千草薫さん、石坂浩二さん、浅丘ルリ子さんら往年のスターが顔をそろえ、昼の帯ドラマとして異例の話題を呼びました。82歳の倉本さんが、老いと仲間と別れを正面から描いた作品でした。

倉本聰はどんな人 美には利害関係があってはならない

倉本さんの人柄を知る手がかりは、本人が繰り返し語ってきた言葉にあるんです。

言葉 出どころ・背景
美には利害関係があってはならない 東大美学科の竹内敏雄教授に学び、「今でも僕の行動原理」と語った(東京大学基金 2019年)
“作”でなく“創”をやろう 富良野塾で「作は知識と金で前例に基づくもの、創は知恵で前例にないものを生むこと」と説いた(週刊女性)
インターネット、スマホを捨てて、野に出ましょう 東大生へのメッセージ。第一次情報の大切さを訴えた(東京大学基金)
もう脚本家としては終わりだな 1974年、大河ドラマ降板直後の心境(週刊女性)
長い休息に入ろうと思います 2017年、富良野GROUP『走る』大千秋楽で演劇からの引退を表明

東大美学科を選んだ理由は「“美”という字があったから、何となくよさそう」だったと、本人は笑って明かしています。同級生には映画監督の中島貞夫さんや、テレビマンユニオンを率いた村木良彦さんがいました。

富良野塾では「前例にないから」と「そうは言っても」を禁句にしたそうです。お金がなくても知恵で新しいものを生み出す。その考え方は、貯金7万円からの再出発を経験した人ならではなのでしょう。

作品の中で繰り返し描いたのは、家族と、自然を顧みない社会への怒りでした。婦人公論のインタビューでは、樹齢50年の木が390円で売られていることへの憤りが創作の原動力だと語っています。

仕事では妥協を許さず、NHKともぶつかった。一方で私生活は語らず、妻や家族を表に出さなかった。激しさと静けさを併せ持った人だったと言えそうです。

晩年の現在と病気 最期まで富良野で

「倉本聰 現在」「倉本聰 生きてる」と気にかける人が多かったのは、高齢になっても表に出続けていたからでしょう。

2017年、富良野GROUPの特別公演『走る』の大千秋楽で「長い休息に入ろうと思います」と演劇活動からの引退を表明しました。それでも執筆は続け、89歳のときには映画『海の沈黙』の原作・脚本を手がけています。

その『海の沈黙』は2024年11月に公開され、本木雅弘さんと小泉今日子さんが出演しました。贋作事件をめぐって美の本質を問う物語で、倉本さんが60年以上温めてきた題材だったと伝えられています。「美には利害関係があってはならない」という学生時代の言葉が、90歳近くになって一本の映画に結実したわけです。

2024年にはNHK-BSの番組『倉本聰、富良野にて~創~』に出演。NHKと20年以上絶縁していた人が、晩年にNHKの番組で創作を語ったのは感慨深いことです。

2015年には日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」に登場し、自らの半生を振り返りました。妻とのなれそめや貯金7万円の話が広く知られるようになったのも、こうした自伝的な発信が重なったからでしょう。

2025年には日本アカデミー賞の会長功労賞を受けました。病気について本人が公に語ったことは少なく、倉本財団の訃報でも死因は多臓器不全とだけ記されています。

亡くなったのは9月18日の夕刻、富良野の自宅でした。1977年に移り住んでから約半世紀、最期まで富良野の人だったわけですね。

亡くなってから公表まで10日かかったのは、家族だけで静かに見送りを済ませてから知らせたいという意向があったからでしょう。倉本財団のお知らせにも「突然のお知らせとなりますことを、謹んでお詫び申し上げます」とあります。

2026年9月28日の訃報とお別れの会

倉本聰さんの死去は、2026年9月28日に倉本財団が公式サイト「倉本聰 界隈」で公表したものです。

お知らせによると、倉本さんは9月18日の夕刻、自宅で多臓器不全のため亡くなりました。91歳でした。葬儀は家族の意向により近親者で済ませたとのこと。

故人の遺志により、11月3日に富良野演劇工場でお別れの会が予定されています。詳細は後日発表とされ、個別の問い合わせは控えるよう呼びかけられています。

富良野演劇工場は、富良野市にある公設民営の劇場です。倉本さんと富良野GROUPの舞台作品が数多く上演されてきた場所で、演劇とともに生きた人を送る場としてこれ以上ふさわしいところはないでしょう。

11月3日は文化の日。紫綬褒章と旭日小綬章を受けた脚本家のお別れの会が、この日に富良野で開かれることになります。妻の平木さんをはじめ、家族がどのような形で参加するのかは、後日の発表を待つことになりますね。

NHK、読売新聞、日本経済新聞などが相次いで報じ、富良野の地元局も「ふらの観光ブームを巻き起こした」と伝えました。週刊女性は過去の連載「人間ドキュメント」を再掲し、妻とのエピソードも改めて読まれています。

日本経済新聞は、映画『駅 STATION』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受けたこと、2015年に同紙で「私の履歴書」を連載したことにも触れています。『北の国から』が1981年から2002年まで続いたシリーズだったことも、改めて振り返られました。

週刊女性は、2019年に八千草薫さんががん治療で『やすらぎの刻~道』を降板した際、倉本さんが最終収録日に富良野から東京のスタジオへ駆けつけたエピソードも伝えています。脚本家が収録に立ち会うのは珍しく、それだけ思い入れが深かったということでしょう。

訃報に妻の平木久子さんの名前は出ていません。家族のことを語らなかった倉本さんらしく、見送りも静かに行われたのでしょう。

まとめ

  • 倉本聰さんの妻は、演劇集団円所属の女優・平木久子さん
  • 東大時代に入った劇団『仲間』でほぼ同時期に入団し、倉本さんが27歳のときに結婚
  • 1974年のNHK降板後、妻が「もう貯金が7万円しかない」と告げ、そこから再起した
  • 富良野移住後も妻はしばらく東京で舞台を続け、のちに富良野へ移った
  • 子供について確かめられる公式情報はなく、「娘」「養女」の話は個人ブログのみ
  • 2026年9月18日に91歳で死去。11月3日に富良野演劇工場でお別れの会の予定

「貯金が7万円しかない」。脚本家・倉本聰を現実に引き戻したその一言が、65年近い夫婦の歩みをいちばんよく物語っているように思います。

よくある質問

Q1. 倉本聰さんの妻は誰ですか。

女優の平木久子さんです。演劇集団円に所属する舞台女優で、倉本さんが東京大学在学中に入った劇団『仲間』で出会い、倉本さんが27歳のときに結婚しました。

Q2. 倉本聰さんに子供はいますか。

本人や公式が子供について語った記録は確認できませんでした。「娘がイラストレーター」「養女」といった話は個人ブログが出どころで、報道や本人の発言による裏付けはありません。

Q3. 妻の「貯金が7万円」とはどんな話ですか。

1974年、大河ドラマ『勝海舟』を降板して札幌で飲み歩いていた倉本さんに、東京にいた妻が「もう貯金が7万円しかない」と告げた話です。倉本さんはトラック運転手になる覚悟を決めた直後、フジテレビから依頼を受けて『6羽のかもめ』を書きました。

Q4. なぜ富良野に住んだのですか。

NHKとのトラブルで札幌に移った後、北海道の暮らしに惹かれ1977年に富良野へ移住しました。本人は「NHKとのトラブルから仕事はどうでもよくなっていた」と振り返っています。移住3年目に『北の国から』を書きました。

Q5. 倉本聰さんはいつ亡くなりましたか。

2026年9月18日の夕刻、北海道富良野市の自宅で多臓器不全のため亡くなりました。91歳でした。9月28日に倉本財団が公表し、11月3日に富良野演劇工場でお別れの会が予定されています。

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