秋山豊寛さんの妻は礼子さんです。2026年9月1日に伝えられた訃報のなかで、喪主として名前が出ました。
亡くなったのは8月26日、下部消化管出血のためでした。享年84。
- 訃報で初めて公になった妻の名前と、葬儀の扱い
- 日本人初の宇宙飛行から農業、そして三重県での晩年まで
- ネット上に出回る家族情報のうち、裏づけが取れないもの
| 項目 | 内容 |
| 名前 | 秋山豊寛(あきやま とよひろ) |
| 生年月日 | 1942年6月22日 |
| 没年月日 | 2026年8月26日(84歳) |
| 死因 | 下部消化管出血 |
| 出身地 | 東京都世田谷区 |
| 肩書き | ジャーナリスト・農家・元TBS記者 |
| 主な功績 | 日本人初の宇宙飛行士 |
| 妻 | 礼子さん(喪主) |
| 晩年の住まい | 三重県大台町 |
秋山豊寛の妻について分かっていること
妻の名前は礼子さん。葬儀の喪主を務めたことが報じられています。
それ以外の情報は公表されていません。長く私生活を語らなかった人なんですよね。
妻の名前は礼子さん
秋山豊寛さんの妻について確認できるのは、礼子さんという名前だけです。
この名前が公になったのは、2026年9月1日に朝日新聞が伝えた訃報のなかでしょう。
記事には、葬儀は近親者で営んだ、喪主は妻礼子さん、と記されているんです。
つまり亡くなる時点で配偶者がいたことになりますね。
年齢も職業も出身地も明かされていません。顔写真が公開されたこともないんです。
一般の方ですから、これ以上の情報が出てくることはないでしょう。
秋山さん自身、私生活について語ることがほとんどありませんでした。宇宙飛行士として、農家として、ジャーナリストとして。表に出るのはいつも仕事の話だったんですよね。
宇宙飛行のときも、家族が前に出ることはありませんでした。TBSの企画として大々的に報じられた一件でしたが、報道の中心はあくまで本人だったんです。
36年前の出来事ですから、当時と現在で家族の状況が変わっている可能性もあります。そこも公表されていません。
秋山さんの人生は、住む場所が何度も変わりました。東京、ロンドン、ワシントン、モスクワ郊外、福島、群馬、京都、三重。家族がどこまで一緒だったのかも語られていないんです。
海外赴任の多い記者ですから、家族の暮らしも動き続けたはずですよね。そこも表には出てきませんでした。
訃報の一行だけが、公になった唯一の情報。これが実情でしょう。
取材する側にいた人ほど、自分が取材される立場になったときの線引きは厳しくなるものです。秋山さんもその一人だったのだと思います。
妻の礼子さんが公の場に姿を見せたという記録も見当たりません。徹底して裏方に徹していたのでしょう。
妻の顔画像も出ていません。公表されていない以上、無理に探すものでもないでしょう。
訃報のあと、秋山さんに憧れて宇宙飛行士を目指したという声もSNSに投稿されていました。1990年の中継を見た世代には、それだけ大きな出来事だったんです。
訃報で伝えられた内容
訃報の中身も整理しておきます。
亡くなったのは2026年8月26日。死因は下部消化管出血で、84歳でした。
それが報じられたのは9月1日です。亡くなってから6日後の公表になりますね。
葬儀は近親者のみで営まれました。喪主は妻の礼子さん。
| 項目 | 内容 |
| 逝去日 | 2026年8月26日 |
| 報道日 | 2026年9月1日 |
| 享年 | 84歳 |
| 死因 | 下部消化管出血 |
| 葬儀 | 近親者で実施 |
| 喪主 | 妻の礼子さん |
静かに送り出した形ですね。派手なお別れの会などは行われていません。
下部消化管出血は、大腸や小腸からの出血を指します。高齢者では珍しい病気ではないんですよね。
訃報では病名だけが示され、それ以上の説明はありませんでした。ここも本人らしい伝わり方でしょう。
闘病の期間や入院先については明かされていません。訃報が出た時点で、すでに葬儀は済んでいました。
2025年1月の時点ではコラムを書き続けていましたから、そこから1年半ほどでの訃報ということになります。
日本人で初めて宇宙へ行った人の最期としては、意外なほど控えめでしょう。
ただ、晩年の生き方を知ると納得できる部分もあります。三重県の山あいで畑を耕しながら暮らしていた人ですから。
訃報を伝えたのは朝日新聞のほか、共同通信など複数の社でした。日本人初の宇宙飛行士という肩書きが、どの見出しにも並んでいます。
多くの記事が、宇宙からの第一声である、これ本番ですか、という言葉を添えていました。36年前の一言がそのまま追悼の言葉になった形ですね。
訃報が9月1日に出たことで、この日は各社の記事が並びました。宇宙飛行から農業へ転じた経歴を紹介する内容が多かったです。
地球を一周したあとの感想として、やっぱり青いですね、と伝えたことも紹介されています。ガガーリンの言葉をなぞるような一言ですよね。
のちに本人がガガーリンの言葉を引いて有人宇宙開発を語るのも、この体験があったからでしょう。
ネット上の家族情報は裏づけが取れない
妻について書かれた記事はいくつかあります。ただ、扱いには注意が必要です。
宇宙飛行当時の妻として別の名前を挙げている記事も見かけました。1995年に離婚したという記述もあります。
ところが、こうした記述に出典は示されていません。当時の報道でも確認できませんでした。
子供が2人いる、孫がいるといった話も出回っていますが、同じく裏づけが見当たらないんです。
確実なのは、2026年の訃報で喪主が妻の礼子さんだと報じられたこと。ここまででしょう。
- 礼子さんという名前は朝日新聞の訃報記事で確認できる
- 宇宙飛行当時の配偶者の名前は報道で確認できない
- 離婚や再婚に関する記述にも出典がない
- 子供や孫の有無も公表されていない
相手は公人ではありません。憶測を積み重ねて書くのは避けたいところですよね。
訃報が出た直後は、こうした未確認情報が一気に広がりやすい時期でもあります。読むときは出典があるかどうかを見たほうがよさそうです。
亡くなった直後に家族の話が広がるのは、どの著名人でも起きることでしょう。だからこそ、確認できる範囲を明示しておきたいところですね。
日本語版ウィキペディアにも、家族に関する記述はほとんどありません。甥が元衆院議員の木内孝胤さんだという一文がある程度です。
本人が長い間メディアに出続けた人だけに、家族の情報がここまで少ないのは珍しいことでしょう。
それだけ意識的に線を引いていたのだと思います。ジャーナリストとして取材する側にいた人ですから、なおさらですよね。
本人が語った家族の話
私生活をほとんど語らなかった秋山さんですが、家族に触れた文章がひとつ残っています。
朝日新聞の三重県版に連載していたコラム、カフェ日和ですね。
2025年1月27日の回では、姉から大量の写真が送られてきた話を書いているんです。
数えで89歳になる姉からで、30年前に亡くなった母が持っていた写真だったのだとか。
写っている人を知っているのはもうあなたしか残っていないので、時間があれば整理してほしい。手紙にはそう添えられていたといいます。
秋山さんはこのとき、自分を数えで83歳になる弟と表現していました。姉と弟がいる3人きょうだいの家族像が、ここから見えてきますね。
未整理の写真がクッキーの缶10箱以上に詰まっているという話も出てきます。宇宙飛行士というより、ごく普通の高齢者の日常でしょう。
84歳の直前まで新聞にコラムを書いていた。この事実自体が、最後まで書く人だったことを示しています。
そのコラムでは、写真は時を凍結したもので、記憶の働きかけで解凍される、という書き方をしていました。
眠っている家族の写真は整理などせずに、そのまま眠らせておくのも悪くはないのかもしれない。そう結んでいます。
家族について書きながら、結局は整理しないという結論に落とす。この距離感が、そのまま私生活の扱い方だったのかもしれませんね。
同じ回の余白には、旧暦のカレンダーで今年は暮らそうと思う、とも書いていました。83歳の日常が、そのまま原稿になっていたわけです。
カレンダーの季節感がずれていると言ったら、友人が旧暦のものを探してくれた。そんな一節です。山里の暮らしぶりが伝わってきますよね。
宇宙の話でも原発の話でもなく、写真の整理とカレンダー。晩年の筆はこういうところに向かっていたんです。
福島での農業と原発事故
妻の礼子さんが、どの時期からそばにいたのかは分かりません。ただ、秋山さんの後半生は移動の連続でした。
1995年、30年近く勤めたTBSを退職します。移り住んだのは福島県滝根町、現在の田村市でした。
そこで始めたのが農業。農薬も化学肥料も使わず、米や野菜を育てていたんですね。
原木シイタケの生産にも取り組み、この暮らしを15年間続けています。
土をいじることがすごく好きなんですよ。本人はインタビューでそう語っています。
その言葉が出たのは2018年、生活クラブ生協の取材でのことでした。76歳のときですね。
農作業のほうが教室で勉強するより楽しかった。そんな子供時代の話も添えられていました。
小学校から中学校まで玉川学園に通い、労作教育で農作業に触れたことが原点だったといいます。私の脳のなかで農作業は快楽に分類されたのです、という言い方をしていたのだとか。
テレビ局に勤め始めたころから、どこかしっくりこない商売だと感じていたとも明かしているんですよね。
その暮らしを断ち切ったのが2011年3月の東日本大震災と福島第一原発事故でしょう。
秋山さんは群馬県の知人を頼って避難します。藤岡市の有機農業グループの支援を受けながら、無農薬でのコシヒカリ栽培を試みました。
避難先を転々とした時期もあったと当時の新聞が伝えています。68歳での再出発だったわけですね。
このときの体験は、手記『原発難民日記 怒りの大地から』にまとめられています。
15年かけて作り上げた田畑と原木シイタケを、放射性物質によって手放すことになったわけですね。
原発難民という言葉を自分に使い、その立場から原子力発電や放射能について発言を続けました。
宇宙開発を経験した人が原発に反対する。矛盾しているようで、本人のなかでは一貫していたのでしょう。
三重県大台町で迎えた晩年
避難生活のあと、秋山さんは京都へ移るんです。
2011年11月1日付で京都造形芸術大学の芸術学部教授に就任。現在の京都芸術大学ですね。
教授を務めたのは2017年まで。その後は三重県大台町に居を構えました。
大台町は宮川の上流に広がる山あいの町。ここで再び、有機無農薬での野菜づくりに取り組んでいたんです。
2023年に毎日新聞の記者が自宅を訪ねた際には、インターネットもテレビもない暮らしだったと伝えられています。
84歳で亡くなるまで、この山里で過ごしたことになりますね。
宇宙から地球を見た人が、最後は畑に戻った。ずいぶん振れ幅の大きい人生でしょう。
大台町は三重県の南部に位置し、人口1万人に満たない町です。都市から離れた場所を選び続けた人でもありました。
福島の滝根町も阿武隈山地の中にある町でした。山あいで畑を持つという条件は、移住のたびに守られています。
滝根町は2005年の合併で田村市の一部になりました。あぶくま洞で知られる地域ですね。
妻の礼子さんが喪主を務めたということは、この晩年をともに過ごしていた可能性が高そうです。
大台町へ移ったのは2017年4月のこと。そこから9年あまりを過ごしたことになりますね。
地域では反原発のパレードに参加する姿も報じられていました。畑仕事と発言を並行させた晩年でしょう。
朝日新聞の三重県版でコラムを持ち、地元の読者に向けて書き続けていました。全国区の肩書きを背負ったまま、地方紙面の書き手になった形ですね。
2018年3月には、津市で開かれたさようなら原発のパレードに参加した姿が報じられています。移住した翌年のことでした。
畑を耕し、原稿を書き、街頭にも立つ。80代の過ごし方としては相当に濃いでしょう。
有機無農薬という方法を、福島でも三重でも変えませんでした。場所が変わっても軸はぶれていないんですよね。
84歳という年齢まで畑に出ていたことになります。宇宙飛行から36年、退職から31年です。
秋山豊寛のプロフィールと日本人初の宇宙飛行
1942年6月22日、東京都世田谷区に生まれています。TBS記者として1990年に宇宙へ向かいました。
日本人初の宇宙飛行士であり、世界初の民間宇宙飛行者でもありました。
秋山豊寛の経歴年表
84年の歩みを年順に並べてみましょうか。
| 年 | 出来事 |
| 1942年 | 東京都世田谷区に生まれる |
| 1966年 | 国際基督教大学を卒業しTBSへ入社 |
| 1967年 | BBCへ出向しロンドンで番組制作に携わる |
| 1980年代 | ロンドン支局、ワシントン支局長を務める |
| 1989年9月 | TBSの宇宙飛行士候補に選抜される |
| 1990年12月2日 | ソユーズTM-11で宇宙へ |
| 1990年12月10日 | ソユーズTM-10で地球へ帰還 |
| 1995年 | TBSを退職し福島県滝根町で農業を始める |
| 2011年 | 原発事故で群馬県へ避難、京都造形芸術大学教授に |
| 2017年 | 教授を退任し三重県大台町へ |
| 2026年 | 8月26日に84歳で死去 |
学歴も少し変わっているんです。玉川学園の小学部と中学部を出たあと、攻玉社高校へ進みました。
中学のときに父親が失業し、高校進学を断念しかけたそうです。親戚の援助で進学できたと本人が明かしています。
大学は国際基督教大学の教養学部社会科学科で、1966年3月の卒業ですね。
同年4月にTBSへ入社し、同期には城所賢一郎さん、川戸恵子さん、遠藤泰子さんがいます。
配属はラジオニュース部。収録番組の構成やニュース取材を担当していたんです。
入社2年目の1967年12月からはイギリスのBBCへ出向。NHKや朝日放送からの出向者とともに、BBCワールドサービスの日本語放送で番組制作にあたりました。
その後はロンドン支局、ワシントン支局長、外信部デスクと歩んでいます。海外報道の長い記者だったんですね。
ワシントン支局長時代には、レーガン大統領へのインタビューも行っています。1985年4月のことです。
高校時代は落語に興じていたという話も残っています。話術で身を立てた人らしい原点でしょう。
受賞歴もあり、ジャーナリストとしての評価は宇宙飛行の前から確立していました。
外信部デスクとしての経験もあり、国際情勢を扱う現場を長く見てきた人です。宇宙飛行はそのキャリアの延長線上にありました。
ワシントン支局長という立場は、TBSの海外報道の要にあたります。そこから宇宙飛行士候補に手を挙げたわけですね。
宇宙飛行士に選ばれた経緯
宇宙へ行くことになった流れも整理しておきましょう。
1989年、TBSがソビエト連邦の宇宙総局と協定を結びます。日本人をミールへ送るという内容だったんです。
社内の応募者は98人。そのなかから同年9月、秋山さんと同僚の菊地涼子さんの2人が候補に選ばれます。
訓練は1989年10月から1990年11月まで。モスクワ郊外の星の街にある宇宙飛行士訓練センターで行われています。
打ち上げ前日の1990年12月1日、国家審査委員会から宇宙飛行士としての承認を受けます。
実はこの時点まで、日本人初はスペースシャトルに乗る毛利衛さんになるはずでした。1986年のチャレンジャー号の事故で計画が遅れ、順番が入れ替わったんです。
秋山さんはソビエト連邦所属の第85番目の宇宙飛行士として登録されました。
飛行前日には、国際宇宙飛行士連盟のソビエト連邦支部が発行する身分証明書も交付されています。いわゆる宇宙飛行士のパスポートですね。
訓練は過酷でした。体重は75キロほどから60キロまで落ちたと伝えられています。
訓練の場となった星の街は、ガガーリン記念宇宙飛行士訓練センターがある場所です。ソ連の宇宙開発の中心地ですね。
1年以上をロシア語の環境で過ごし、宇宙船の操作から医学的な訓練までこなしました。テレビ局の社員が挑む内容としては、けた違いの負荷でしょう。
しかも当時のソ連は、翌1991年に崩壊へ向かう混乱期にあります。歴史の転換点に立ち会いながらの訓練だったわけです。
TBSが費用を負担した商業宇宙飛行という形も、当時としては前例がありませんでした。ソ連側にとっては外貨獲得の意味もあったと言われています。
47歳での挑戦です。記者としてのキャリアの途中で、いきなり宇宙飛行士の訓練へ放り込まれたわけですよね。
同時に選ばれた菊地涼子さんはバックアップを務めました。実際に飛んだのは秋山さん1人でしたが、2人での訓練だったんです。
帰還後には菊地さんとの共著も出しています。ともに訓練を受けた者どうしの記録ですね。
評論家の立花隆さんとも共著を出し、対談やシンポジウムで何度も同席しています。宇宙をめぐる論客として扱われた人でもありました。
TBSが調印した1989年の時点では、日本人初はスペースシャトルの毛利衛さんになる見込みでした。順番が入れ替わったのは偶然の産物ですね。
これ本番ですかという第一声
1990年12月2日、バイコヌール宇宙基地からソユーズTM-11が打ち上げられました。
TBSは打ち上げから帰還まで長時間の特別番組を編成。打ち上げ時の視聴率は36パーセントに達したそうです。
周回軌道に乗ったあと、地上のスタッフから呼びかけられた秋山さんが返したのが、これ、本番ですか、という一言なんです。
この第一声は今も語り継がれているんですよね。今回の訃報でも、多くの記事が見出しに使いました。
本人は後年、こう振り返っています。第一声は宇宙は混沌としていますと言うつもりだった、と。
生中継に備えて地上のスタッフと交信していた直後だったため、思わず反応してしまったのだそうです。
ところが実際の宇宙は混沌としていなかったそうです。そして、思わず出たあの一言のほうが、もっとも放送人らしい第一声だったのではないかと書き残しています。
滞在中は宇宙酔いにひどく苦しみます。同乗したロシアの飛行士が、あんなに吐く人間は見たことがないと語ったほどでした。
それでも仕事は続けます。北海道を見て、おいしそうな昆布にみえます、と伝えたのもこのときでしょう。
8日間の滞在を終え、12月10日にカザフスタンへ帰還。マイクを向けられた第一声は、お酒が飲みたい、タバコが吸いたい、だったそうです。
打ち上げの翌日には、ミールとドッキングする直前のソユーズが日本の上空を通過しています。日没直後の時間帯で条件が揃い、日本各地から肉眼で見えたのだとか。
宇宙実験も担当していました。日本から持ち込んだカエルを無重力に置くとどうなるか、扇子であおいで移動できるか。自ら被験者になった睡眠実験もあったそうです。
報道と実験を1人でこなす。宇宙特派員という肩書きが、そのまま仕事の中身だったわけですね。
宇宙から農業へ向かった理由
宇宙飛行のあと、なぜ農業だったのか。ここは多くの人が引っかかる部分でしょう。
秋山さんは帰還後、環境破壊や農業についての取材を進めていきました。宇宙から地球を見た経験が、視線を足元へ向けさせたわけですね。
1995年にTBSを退職し、福島の山あいへ入ります。53歳のときですね。
有人宇宙開発をめぐる議論では、費用対効果で語ることに強く反対しています。
2012年のシンポジウムでは、ガガーリンの地球は青かったという言葉を引き、これは費用対効果などでは測れないものだと述べています。
僕らは宇宙船地球号に乗っている呉越同舟の仲間なんだ。そう感じさせてくれるすごい言葉だった、という趣旨の発言です。
宇宙開発を語る人が、同時に原発に反対し、無農薬で米を作る。一本の線でつながっているんですよね。
日本人初の宇宙飛行士という称号をめぐっては、長く議論もありました。毛利衛さんが日本人初と紹介される場面があったからです。
当時の毛利さんはNASAのペイロードスペシャリストという資格で、NASAの基準では宇宙飛行士の範疇に入りません。一方の秋山さんは旧ソ連のコスモノーツ資格を取得していました。
JAXAも公式サイトで、秋山は日本人で初めての宇宙飛行士となったと説明しています。日本人の民間人として初めての宇宙飛行という意味もある、という書き方ですね。
宇宙飛行を経験した人だけが入れる国際団体、宇宙探検家協会の初の日本人会員でもありました。
宇宙ステーション・ミールに滞在した唯一の日本人という記録も残しています。ミール自体が2001年に大気圏へ落とされていますから、この記録は永久に破られません。
NHKの番組が毛利さんを日本人初の宇宙飛行士と紹介し、視聴者から問い合わせが相次いだこともありました。定義の違いが混乱を生んだ例ですね。
資格の話を抜きにすれば、日本人として最初に宇宙へ到達したのが秋山さんであることは動きません。1990年12月2日という日付がその証拠です。
毛利さんが飛んだのは1992年9月で、1年9か月の差がありました。どちらが初かという議論とは別に、2人の飛行はまったく性格の違うものだったんですね。
ちなみにスミソニアン博物館では、初めてお金を払って宇宙に行った人間として紹介されています。費用を負担したのは本人ではなくTBSでしたが、商業宇宙飛行の第1号であることは確かでしょう。
地球を外から見た人だからこそ、地面の話をし続けた。そう考えると腑に落ちます。
著書も多く残しています。立花隆さんとの共著『宇宙よ』、菊地涼子さんとの共著『こちら宇宙特派員!』などですね。
テレビ出演も続けていて、山陽放送の報道番組でメインキャスターを務めた時期もあるんです。2003年から2004年にかけてのことでした。
京都へ移ってからはMBSラジオの生ワイド番組でパーソナリティも担当しています。記者、農家、大学教授、そしてラジオの語り手。肩書きの多い人でした。
毎日放送の情報番組にパネリストとして不定期出演していた時期もあります。関西でも顔の知られた人だったんですね。
宇宙飛行士としての体験を語る講演にも数多く立っています。恐怖の中で自分を支えた言葉について語った記録も残っていました。
宇宙に行った経験を語り続けながら、生活の場は一貫して土の上にありました。そのギャップこそが、この人の魅力だったのだと思います。
宇宙飛行士でありジャーナリストであり農家。この3つを同じ人物の肩書きとして並べられる例は、日本では他に見当たりません。
秋山豊寛の妻についてのまとめ
- 妻の名前は礼子さんで、葬儀の喪主を務めた
- 名前が公になったのは2026年9月1日の訃報が最初
- 年齢も職業も顔写真も公表されていない
- ネット上の離婚説や子供の情報には出典が確認できない
- 秋山さんは2026年8月26日に84歳で死去した
妻について語られたのは、訃報のたった一行だけなんですよね。
それでも、その一行があることで、84年の最期を看取った人がいたと分かります。
宇宙から地球を見て、福島で土を耕し、三重の山里で筆をとった84年でした。その最後にそっと名前が出た形ですね。
妻について知りたい人が多いのは、それだけこの人の人生が気になるからでしょう。ただ、答えは訃報の一行に尽きています。
よくある質問
Q1. 秋山豊寛さんの妻は誰ですか
A. 礼子さんという方です。2026年9月1日に朝日新聞が伝えた訃報のなかで、葬儀の喪主として名前が出ました。年齢も職業も出身地も公表されておらず、顔写真も出ていません。
Q2. いつ亡くなったのですか
A. 2026年8月26日です。死因は下部消化管出血で、84歳でした。報道されたのは6日後の9月1日で、葬儀はすでに近親者のみで営まれています。
Q3. 子供はいるのですか
A. 公表されていません。ネット上には子供が2人いるという記述もありますが、裏づけとなる情報は確認できませんでした。日本語版ウィキペディアにも家族に関する記述はほとんどなく、甥が元衆院議員の木内孝胤さんだという一文がある程度です。
Q4. 離婚歴はあるのですか
A. 確認できません。1995年に離婚したと書く記事もありますが、出典が示されておらず、当時の報道でも確かめられませんでした。分かっているのは、亡くなった時点で妻の礼子さんがいたということだけです。
Q5. 晩年はどこで暮らしていたのですか
A. 三重県大台町です。2011年から2017年まで京都造形芸術大学の教授を務めたあと、この山あいの町に移り住みました。有機無農薬の野菜づくりを続け、朝日新聞の三重県版にコラムも連載しています。2023年の取材では、インターネットもテレビもない暮らしだったと伝えられました。

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